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2019年4月 2日 (火)

<特別寄稿>あなたと私と、そして松原工房と。

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心の扉

水色と水玉のドアノブを押して入った店で、私を迎えたのは天井からリズミカルに吊るされた色も形も様々なランプシェードたちでした。それは商品のようにもみえ、閉店したと言われなければ、今朝も今から開店しそうな雰囲気さえ漂っていました。整然と片づいた部屋の片隅には、小さな空き箱に入った小物類が顔をのぞかせていて、その中にカギのオーナメント見つけました。カギは私が自分を手にするのを待っていたのでしょう。誘われるままに手にしたカギを手のひらにそっと握りしめたら、一瞬のうちに、いろんな思いがこみ上げてきました。

 

一人目のあなた。

2000年の夏、陶商・F家のご厚意で私は波佐見で数日を過ごしました。食器産業を通して近代窯業の産業構造改革を研究するという壮大な目的を抱いて、東京の卸商社を辞めて進学した京都の大学院修士課程1年目のことでした。

F家のFちゃんは、東京時代のライバル会社の営業マンで、私たちは互いに競い合いながら、時代の最先端をゆく、おしゃれで、トレンディーな生活雑貨を売って、売って、売り歩いていました。しかし、程なくそんな時代は、はじける時を迎え、折しもFちゃんは実家の都合で東京を去り故郷に帰っていきました。それでもまだ私はひたすらに、「良いものを作れば、私が売るから」と、メーカーさんに激を飛ばしながら迷走し、次第に仕事にも人生にも、いっぱいいっぱいになり、仕事を辞めました。

大学院への進学は各方面への言い訳とするには好都合の大義名分となりましたが、一方で、少し不穏な思いもありました。どうせなら人生の最後に有り金を全部使って一番無駄なことをしてみよう、といった危うい感情もどこかにありました。勉強が好きなわけでも、研究にすごく興味があるわけでもなく、とにかく今居るところ以外のどこかに行かなくてはと、東京を逃げ出して飛び込んだ先がそこだったのです。

そんなある日、突然、しばらく振りにFちゃんから電話があり、その時初めてFちゃんは自分が波佐見という町の陶商の4代目であることを話してくれ、私の研究に波佐見が役に立つならいつでも協力をすると申し出てくれたのです。

驚きました。そして、私は波佐見と出会ったのです。

 

二人目のあなた

 行けども、行けども広がる田園の中に点在する煉瓦の煙突が、波佐見がやきものの町である証をみせていました。有田のように街道沿いにやきものを売るお店が軒を並べ、有名な陶磁器製造所の看板が掲げられることもなく、そんなところが波佐見の産地としての個性に通じているのだと、率直に感じました。わずか数日の滞在ぐらいでは波佐見の何たるかを知ることなどできる訳もなく、「また来よう」と思いつつ、心を残して京都に戻り、それでも何とか修士論文『やきものにおける産業創生』をまとめました。

大学院修了後の私は30代半ばでした。仕事はなんとかなると気楽に考えていましたが、就職のあてはなく、非正規雇用の仕事をいくつも掛け持ちしながら生活費を稼ぐことに必死の毎日が始まりました。時はまさに大不況期で、社会人時代、大学院時代の苦しくも働くこと、学ぶことに手ごたえを感じて生きていた日々は、瞬く間に遠のき、いろんなことが色あせ、萎んでゆくように思えていました。

あてもなく、ふわふわとした自分に不安な時を過ごしていた頃、奥田容子の作品に出逢いました。大学院を経て作陶活動に入った奥田は、やきものの器を単に陶芸作品として造形するのではなく、人間の社会生活も窯業技術も進化した現代においての「やきものづくりとは何なのか」といった根幹的な問いかけをやきもので造形する現代アートのアーティストとして、現代陶芸の若手の中で頭角を現しつつあったのです。

そんな彼女から「ねえ、やきものをつくる私と、やきものを研究するむとうさんとで、やきものこと、もっと勉強せえへん」と誘われ、奥田の小さなアパートの部屋の片隅を研究室にして、ささやかな二人勉強会が細々と始まりました。研究会を何回か重ねたある日、奥田は「私、アーティストって呼ばれるために大学まで行ってやきものをやったんじゃない。私、やきものを一生の仕事にしたいと思って選んでんから、私、食器屋になる。」と言いましたので、「奥田、行け!」と私はいいました。

その門出に私たちは二人修学旅行をしました。京阪電車で大阪にゆき、中之島のどこかで昼食をとり大阪市立東洋陶磁美術館を訪ね、それぞれに「あーだ」「こーだ」と言いながら二人で一緒にやきものをみる時間を過ごし、仕上げに京橋の串揚げ屋を数件はしごして、終電に駆けこみ、その後の記憶は飛んでしましました。

程なく、奥田容子は食器屋になるために有田へ旅立ちました。

 

三人目のあなた

 「むとうさん、私、有田でね、おおたちゃんという、やっぱり京都からきた女の子と出会ってん。おおたちゃんはね、ものすごく轆轤が上手やねん、ほんまきれいやねん。なんぼ頑張っても、私は、轆轤はおおたちゃんにかなわんと思う。ほんでね、二人で食器屋をすることにしてん。」と、ある日、奥田が電話をくれました。

「おおたちゃん」なる女子は、「作るのはええんやけど、売ることを考えたりすることは苦手」とお仰るようで、奥田が絵付けや商品企画、販売をやることにして、二人が住んでいた松原アパートで松原工房という食器屋を始めるというのです。私はその話を聞いて近代陶芸の新たな道を開いた陶芸家・板谷波山とその轆轤師・現田市松のことが頭に浮かび、「なんか、すごいことが始まった」と、ひとり勝手に舞い上がり、心の鼓動が早くなったことを覚えています。

のちに、初めて手にした松原工房の小さな杯は、高台からの素直な曲線に導き出されて反り返った薄い生地が、綺麗に口を開き、手乗りが軽く無駄のない形なのに、磁器にありがちなおすましした感じがなく、素直に手に馴染みました。いわば、これが「おおたちゃん」こと、太田祐子と私の初めての出逢いでした。彼女の技の確かな可能性を私自身も実感し、それをいち早くみとった奥田の審美目に今さらに感心しました。同時に、太田が若いのに技量と度量のあるつくり手であることに、さらに感心しました。

二人の女の子たちは本気で食器屋になるのだと、私が確信したのはこの時でした。

 

先週のこと

ほぼ19年振りに私は波佐見と有田を訪れていました。平戸から有田に移動する松浦鉄道の佐世保辺りで、思い立って実に67年振りにFちゃんに電話しました。突然の再会にも関わらず、満面の笑みで迎えてくれ、その上、その夜は奥田と太田の門出を祝う宴席まで用意して下さったのです。私たちは鯉のあらいと伊万里牛に途切れることなく箸をのばし、これまた一瞬も途切れることなくお喋りに花を咲かせ、至福のひと時を過ごしました。

実は4人が一緒に会うのはこの時が初めてだったのです。それぞれに個別な用事で会うことはありましたが、太田と私も、私の記憶が確かなら三度目です。それでも、故郷の同窓会に集まったような、不思議な安堵感に全員が包まれていました。

翌日は奥田と太田が展開した松原工房の活動を九州陶磁文化館で締めくくるという趣旨のもと、二人と私はS水氏のご案内で、カメラマンS野氏を同行し、修学研修会をしました。この日は同館の名誉顧問O橋先生にもお目にかかることが叶い、私たちは、O橋先生にたくさんのお話を聞いていただき、沢山のお励ましの言葉を頂き、嬉しかったです、有難かったです。

興奮のうちに時間がすぎ、気が付けば奥田とS野氏は何度も何度も振り返り手を振って、走っては振り返って、手を振って、木立の中に消えていました。奥田が着ていた鮮やかなエメラルドグリーンの服が残像のように何度も何度もぼやける瞳の中に映りました。

次の日、奥田容子は新たな時代を拓くため下川へ旅立ちました。

 

四人目のあなた様へ

奥田が京都を旅立ち16年、奥田と太田が松原工房を創業して13年、これほどの歳月がありながら、私はその間、どうして一度も波佐見を訪れることができなかったのだろうと、松原工房の閉業を奥田から告げられて以来、ずっと考えていました。もはやもう、私にできることは、自分が体験することが叶わなかった松原工房の活動を、奥田の言葉やかつて見たブログを頼りに想像するばかりです。

しかし、この文章を読んで下さっているあなた様は、松原工房の活動に実際に参加してきたお方と思います。奥田容子からの最後のお便りに見るように、松原工房の食器は多くの人々の暮らしを彩るとともに、それらを手にした一人ひとりの人生を変える契機となったのではないかと私は考えています。

私はかつて、食器や調理道具を売る仕事をしていました。器や鍋はひとつ、二つなら小さくて可愛いし、重くもないのですが、商社の販売量は話が違います。器や鍋がぎっちり詰まった段ボール箱は石のように重く、それを何箱も納品し、並べるのが常の仕事でしたので、こんなことなら、おなじ石なら宝石とか、小さくて値の張るものを扱う仕事を選べばよかったと、何度も思ったことでした。

でも、ある時目にした雑誌に、子育て奮闘中のママの投稿がありました。ずっと欲しかった食器をバザーでみつけて買い求め、家族の食卓が笑顔に溢れ、自分も幸せな気分になったという内容でした。その記事を読んで私は思いました。食器屋の仕事はいい仕事だと。人間はどんなことがあっても、ごはんを食べて生きています。落ち込んだり、つらいことや悲しいお別れがあって、泣きはらした顔でも、器の中の食べ物を覗き見れば、料理を一口、口に運べば、体の中から何か温かなものがふつふつと湧いてきて、いつしか顔がほころび、ほっとします。家族や親しい人、恋人と囲む食卓であればなおのこと、器の上にはいつも人の笑顔があるのです。人々の日々の暮らしの幸福のひとつ、ひとつに寄り添うことができる、こんないい仕事はそうそうないと、心から思ったのです。今でもそう思っています。

あなた様は、私の知らない松原工房の目撃者です。きっと一度や二度は、松原食器を囲みながら、そこはかとない幸福感に包まれたことがあることでしょう。今、あなた様のお手元にある松原食器は、あなたがひと目惚れ、あるいは何度も通い、熟慮して選んだ器たちだと思います。それにどんな料理を盛ろうか、誰と何時使おうか、春には菜の花のおひたしを、夏には冷奴を、秋には秋刀魚を、冬にはふろふき大根を、と献立は広がります。

そして、自分の生活を彩る素敵な器を壊さぬように、欠けさせぬようにと、食事の支度や洗い方、しまい方に心を配るようになったのではないですか。一つの食器がそれを手にした人の人生にもたらす変革は、実は自覚している以上に大きなものです。コンビニで買ったお惣菜やお弁当の一品を松原食器に盛るだけで、口福だけではなく、目福も加わり、触感も新たな刺激が加味され、総じて味わいがより増したはずです。さらに料理をしたり、食事を楽しむため、何気ない日常の時間の使い方も変わったのではないですか。

松原食器の到来によりあなた様の一日の生活の時間のうち、約5分間が食事に関わることに傾いたとしましょう、一年で約30日相当を自分の命を養う時間とすることができてきたのではないですか。

松原工房はあなたの人生に本気で寄り添い、彩っていく食器屋でありました。

 

未来を拓くカギ

先週の波佐見と有田での邂逅の数々を経て、私は時を重ねて何かを育むことは、なんと幸せなことなのだろうかと、あらためて、つくづくと思っています。「人間の生活」にとって「やきもの」は不可欠な要素として存在しつづけてきたことを再び認識する機会ともなりました。仲間たちとの再会、そして別れは、それぞれの日常においての新たな関係の始まりでもあります。あなたと私と、松原工房は、松原食器を通じて、今までも、これからもどこかしらで、何らかのかたちで、めぐり逢っているのです。その意味で、私たちは互いに不可欠な存在となっているのです。そんな思いが、松原工房の活動の目撃者とはなれなかった私にとっての一つの答えになりました。

松原工房は閉店しましたが、13年前に開店した松原工房の扉は、あの日以来ずっと開いたままです。松原工房の活動は、あなた様の、皆様の暮らしの中で、これからも育み続けられていくからです。

それに、カギは私が持っていますので。いずれまた、お逢いしましょう。ごきげんよう。

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武藤夕佳里

某財団記念館主任学芸員
植彌加藤造園株式会社庭園研究開発室研究員

 

 

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